新入荷 再入荷

源頼朝、鎌倉に幕府を開く・江馬細香・自筆「日本外史」のうち「北条記の巻」茶道・茶道具 4B

flash sale icon タイムセール
終了まで
00
00
00
999円以上お買上げで送料無料(
999円以上お買上げで代引き手数料無料
通販と店舗では販売価格や税表示が異なる場合がございます。また店頭ではすでに品切れの場合もございます。予めご了承ください。
新品 12000円 (税込)
数量

源頼朝、鎌倉に幕府を開く・江馬細香・自筆「日本外史」のうち「北条記の巻」茶道・茶道具 4B

商品説明出品した古筆は、巻四「源氏後記・北条氏」の原文です。「日本外史・巻四」は、鎌倉幕府2代執権「北条義時」を中心に記しております。隷書体による「日本外史」江馬細香・自筆自筆下部に江馬細香の落款(印譜)「細香」と「湘夢」がある。2つとも細香の落款自筆上部に緒方洪庵の所蔵を示す「適々齋」の落款(印譜)がある。(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)「額縁入自筆原本」上記額は、海外展示の際に用いられた額です。「自筆原本」原本下部の2つの印は、江馬細香の「細香・湘夢」の落款。上は、緒方洪庵の「滴々斎」の落款。《江馬細香・自筆「日本外史」北条記》原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載「日本外史」は、「女文字」による精密な「隷書体」で記されております。隷書体の「日本外史」は日本国内では本自筆のみです。「日本外史」は、白河藩主・松平定信に献上され自筆の序文冒頭には、「上楽翁(松平定信)公書」、末尾には文政十年(1827)5月21日、序文の下に大垣藩医・江馬蘭斎の娘・細香の号である「湘夢」の押捺がある。自筆は「極細」の筆が用いられており、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカでは高く評価されている。海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。上から3番目の写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。(Ⅰ)・出品した原本の「漢文」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《武田信義以》・・・下次之。賴朝剏鎌倉府。政子助之於。而時政義時輔之於外。諸將士目以北條公。莫敢抗禮。明年。七月。政子生男。是爲賴家。立爲世子。北條氏以外祖。益貴重。陰收人心以自固。賴朝有嬖。託之伏見廣綱家。時政妻牧氏知之。告政子。政子性妬悍。使牧宗親毀廣綱宅。驅逐其。走。依大多和義久者。賴朝聞之。託事往義久宅。召宗親罵之。親截其。時政聞而恥之。不告而歸其邑。賴朝謂梶原景季曰。江馬必不從。汝往視之。江馬者。義時也。還報曰。在。賴朝召義時曰。汝可託吾子孫者。已而事釋。時政還鎌倉。被親信・・・《如初。》漢文の文責・出品者注記・漢字が難字(旧字)の場合、システムの関係でエラーとなり画像に反映されない場合があります。その場合、空白となりますが落札の際に出力文を交付いたします。「原文の読み下し文」と「現代語訳解読文」は、漢文の文字(難字・旧字)を正確に反映しております。(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の読み下し文(解読文)」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《武田信義(たけだのぶよし) 以》・・・・下之に次ぐ。頼朝、鎌倉府を初む、政子(まさこ)、之を内に助げ、而して時政(ときまさ) ・義時(よしとき)、之を外に輔く。諸将士目するに、北條公を以てす。敢て抗礼する莫し。明年 (1181)七月、政子(まさこ)、男を生む。是を頼家(よりいえ) と為す。立てゝ世子と為す。北條 氏、外祖を以て益々貴重せらる。陰に人心を収めて、以て自ら固くす。頼朝、嬖姫有り。之を伏見広綱(ひしみひろつな) の家に託す。時政(ときまさ) の妻牧(まき) 氏、之を知りて政子(まさこ) に告ぐ。政子(まさこ)、性妬悍、即ち牧宗親(まきむねちか) をして広綱(ひろつな) の家を毀ち、其の姫を駆逐せしむ。姫走りて、大(おお) 多和義久 という者に依る。頼朝、之を聞き、事に託して義久 の宅に往き、宗親(むねちか) を召して之を罵り、親ら其の髻を載る。時政(ときまさ)、聞きて之を恥ぢ、告げずして其の邑に帰る。頼朝(よりとも)、梶原景季(かじわらかげすえ) に謂いて曰く、「江馬(えま) は必ず従わらん。汝往きて之を親よ」と。江馬(えま) は義時(よしとき)なり。還り、報じて曰く、「在り」と。頼朝(よりとも)、義時(よしとき)を召して曰く、「汝は我が子孫を託す可き者なり」と。已にして事釈け、時政(ときまさ) 鎌倉に還りて、親信せらること・・・・《初めの如し。》漢文の読み下し文の文責・出品者(Ⅰ)・出品した原本(漢文)の「原文の現代語訳文」は次の通りです。《日本外史 巻之四 源氏後記 北条氏》《源頼朝、鎌倉に幕府を開く》《時政を第一功とした。武田信義以》・・・下がこれに続いた。この時、頼朝は、鎌倉幕府を創(はじ)めた。政子は、内から頼朝を助けて、時政・義時は、外からこれを補佐した。諸将士は、時政のことを北条公と呼んで一目置き、対等の礼を取ろうとする者は、誰も居なかった。頼家、世子となる翌年七月、政子は、男子を生んだ。これが頼家である。これを立てて家を継ぐ嫡子とした。北条氏は、外祖である故に益々尊重された。又、密かに人心を取り込み、自らの立場を堅固にした。当時、頼朝には、嬖愛する妾がいた。これを伏見広綱の家に預けていた。時政の妻牧氏は、このことを知り、政子に告げた。政子は、気性が荒く嫉妬深かった。これを聞いた政子は、直ぐ様牧氏の父牧宗親に、伏見広綱の家を破壊させて、その妾を追い出した。妾は、走って大多和義久と言う者を頼った。頼朝は、これを聞き、他の事に託(かこつ)けて義久の家へ向かい、宗親を呼び出して罵倒して、自ら宗親の髻(もとどりを切った。時政は、妻の父宗親が頼朝にはずかしめられたことを聞き、これを恥じて、暇(いとま)を告げずに自分の領地へ帰った。頼朝は梶原景季に言った、「江馬は、きっと父に従わなかった筈だ。汝は、これを見に行ってみよ」と。江馬とは、義時のことである。景季が戻って来て報告した、「居ました」と。頼朝は義時を召して言った、「汝は、我が子孫を託すべき者だ」と。やがて、この事は落着して、時政は、鎌倉に戻って来て、頼朝に親しみ信頼されることが・・・・《初めの頃と同様であった。》備考:北条時政とその子北条義時は、鎌倉殿13人の主力メンバー現代語訳の出典・「日本外史」訳・頼惟勤・お茶の水女子大学名誉教授(1922~)「自筆の断層(MRI)写真」(断層画像MRI-4-4-B)「細香・湘夢」の2つの印は、江馬細香の落款。「序文の記載年号、落款、花押、及び隷書体の資料」写真右から隷書体の「曹全碑」写真。右から2番目は、序文末尾の拡大写真。日付左の印は、大垣藩医・江馬蘭斎の娘、江馬細香の号である「湘夢」の落款。右から3番目は、序文末尾に記された「文政十年(1827) 5月21日」の日付。その左が「湘夢」の落款。右から4番目が巻十六末尾下の「細香」の自筆署名と「湘夢」の落款。左端は、江馬細香・自筆の評価額・出典・「美術年鑑」古美術名家撰851頁(美術年鑑社・刊)「額縁裏面ラベルと巻四冒頭の落款」上の写真は額縁裏面のラベル 下の写真右端は巻四冒頭の部分下の写真左のうち上段は緒方洪庵の号「適々齋」下の写真左のうち下段は仙台藩の家紋竹に雀の落款「美術年鑑の評価額」「江馬細香の肖像と自筆」上の写真は、江馬細香の肖像。手前が細香、右上が紅蘭(原図は江馬家所蔵)下の写真は、江馬細香の自筆の詩稿、三十九歳の時の漢文。校正個所は頼山陽

古書、古文書の製品

商品情報の訂正

このページに記載された商品情報に記載漏れや誤りなどお気づきの点がある場合は、下記訂正依頼フォームよりお願い致します。

訂正依頼フォーム

商品レビュー

レビューの投稿にはサインインが必要です