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後京極摂政前太政大臣の和歌・漢文・自筆「百人一首」室町時代・永正十四年(1517)関白・近衛尚嗣・旧所蔵・茶道・茶事・和歌番号91

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後京極摂政前太政大臣の和歌・漢文・自筆「百人一首」室町時代・永正十四年(1517)関白・近衛尚嗣・旧所蔵・茶道・茶事・和歌番号91

商品説明漢文の草書体による自筆「百人一首」自筆下部に出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子の落款(印譜)がある。天智天皇の和歌・漢文・自筆「百人一首」室町時代・永正十四年(1517)成立京都の公卿・従一位・関白・近衛尚嗣の近衛家の旧所蔵(自筆の凹凸はストロボの反射によるものです。)「額縁入自筆原本」上記額は、海外展示の際に用いられた額です。「自筆原本」下部の印は、松平治郷の正室・方子の落款。原本の来歴及び国内所蔵数については下記に記載室町時代・永正十四年(1517)漢文「百人一首」は、上品で流麗な漢文で記されております。室町時代「永正十四年(1517)」に「万葉仮名」、或いは「真字」と称される漢文のみで記された自筆「百人一首」です。室町時代「永正十四年」に書かれて約百年後に「近衛尚嗣」の所蔵になっていることから、元々近衛家で所蔵されていた。その後、近衛家から出雲・松江藩に伝来していることがわかる。漢文「百人一首」は、現存数が少なく、特に室町時代以前の「百人一首」は、宮内庁書陵部や国立国会図書館など数部しか確認されておりません。室町時代・永正十四年(1517)漢文「百人一首」は、正確で精緻な筆の運びが「芸術的な領域に達している」としてアメリカなど海外において高く評価されている。海外展示に際し、断層写真により分析されております。原本を分析・解析するために海外の研究機関において「断層(MRI)写真」撮影等による新技術による分析・検査・証明が行われた後、一般の展示に付されたものです。出品した自筆は、アメリカで撮影された下記「断層(MRI)写真」においてわかる通り、微細な曲線をも精緻に描いた極めて美しい芸術性の高い日本語の優れた文字としても高い評価を受けております。下記断層画像写真は、科学的で客観的な分析データを重視するアメリカの航空宇宙局(NASA)の技術による「断層画像(MRI)写真」です。「断層(MRI)写真」によって、古切の書の詳細を知ることができます。NASA(アメリカ航空宇宙局)の優れた技術である「断層(MRI)写真」撮影を通して、日本の優れた伝統技術をアメリカ国内において広く知らせているものです。(Ⅰ)・出品した漢文「百人一首」自筆の「漢文」は次の通りです。「後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」「莎蟋蟀鳴那霜夜之狭莚尓衣片敷独邁当寝」(Ⅱ)・出品した漢文「百人一首」自筆の「音読(おんよみ)」は次の通りです。「後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」「莎蟋蟀(きりぎりす)鳴那(なくや)霜夜之(しもやの)狭莚尓(さむしろに)             衣片敷(ころもかたしき)独邁当寝(ひとりかもねむ)」(Ⅲ)・出品した漢文「百人一首」自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。「後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」 「きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに              衣かたしき ひとりかも寝む」(文責・出品者)漢文の「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。(Ⅳ)・出品した漢文「百人一首」自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。「後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」「こおろぎの鳴く、霜のおりる寒い夜、むしろの上に           衣の片方の袖を敷いて、私はひとり寂しく寝るのであろうか。」現代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大学名誉教授)備考1:「後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」は、「藤原良経(ふじわらのよしつね)。「後京極摂政前太政大臣」は官職名。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。後京極良経とも呼ばれる。父は九条兼実。母は藤原季行の娘。九条道家の父。1179年、元服する。1185年に従三位となる。1188年、兄の九条良通が早世したため、兼実の嫡男となった。その後も権中納言、正二位、権大納言と出世し、1195年には内大臣となった。しかし1196年11月、反兼実派の丹後局と土御門通親らの反撃を受けて父とともに朝廷から追放され、蟄居することを余儀なくされた。1199年、左大臣として復帰を果たし、その後、内覧となる。そして1202年12月、土御門天皇の摂政となり、1204年には従一位、太政大臣となった。「出雲・松江藩江戸邸(松平方子)・額縁裏面表記ラベル」上の3枚の写真のうち、上2枚は旧所蔵者の出雲・松江藩・江戸邸と方子の調度品3段目の写真は、「額縁裏面」に表記されるラベル原本は、近衛家から出雲家にわたり出雲・松江藩・江戸邸で方が読まれていたものです。「断層画像写真」《断層画像写真番号(和歌番号と同じ)-91》印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子の印影。参考資料:「後京極摂政太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん)」出典・出典・財団法人小倉百人一首文化財団・所蔵「題字、奥書の記載年号の資料」右の写真は、漢文「百人一首」の表紙の題字。左下に出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子(よりこ)の二つの落款、一番上の印が方子の娘・幾千姫(玉映)の落款。左の写真は奥書。室町時代「永正十四年(1517)」の年号。年号の下の花押は近衛家の「近衛尚嗣」の花押。近衛尚嗣(1622~1653)は江戸時代初期の公卿(従一位・関白)であるため、室町時代「永正十四年」から約百年後に「近衛尚嗣」の所蔵になったことがわかる。その後、近衛家から「出雲・松江藩」にわたり、左下に松平治郷の正室・方子(よりこ)の二つの落款がある。表紙の題字の落款から考えると近衛家から出雲・松江藩に伝来していることがわかる。書いた人物の特定であるが、室町時代の「永正十四年(1517)」に書かれたことは判明しているが、筆跡の美しさと流麗な字の動線から近衛家の公卿であることは推定できるが、人物の特定までは至っていない。このため永正十四年(1517)漢文「百人一首」近衛尚嗣(1622~1653)旧所蔵である。近衛尚嗣の父は、後陽成天皇の皇子である近衛信尋(のぶひろ)。尚嗣の妹・泰姫は、水戸藩・藩主徳川光圀の正室。長男は、「源氏物語」を収集していた近衛基熙(このえもとひろ)肉筆 保障 保証 真筆 真筆 親筆 古筆 本物保証 本物保障 室町 掛軸 掛け軸 自筆 天皇 茶道具 宗鑑 良寛 伝来 歌仙 極め 極札 極め札 鑑定

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